昭和54年6月18日 月次祭
                       中村良一


先日、今度、壮年大会が開かれます。毎年、もう恒例になりまして、その壮年大会の、まぁ大会テーマを頂きたいと言うて、総代さんが、ここへ参りました。神様にお願いさせて頂きましたら、真和信ということを頂きました。しんということは真、ね。真のは信とこういただく。どういうことだろうかと思うておりましたが、結局、真の信心。真の和ということだと思います。ほんなら、真の信心とは、真の和とは、どういう事であろうかと。私は、真の和と言うのは、和賀心の和だと思うと。真の信とは、真の信心のこと。だから、真の信心とは、真のおかげが伴う。真の和には、おかげは和賀心にありと言われるのですから、ね。それが、裏打ちをされた様に、和にも信にも、実証がなされなければ、真の和ではない。普通平和、ね。良くあの、額なんかに、和という字を書いたのがありますけれども、あの和とは違う、真の和と言うのは。ね。幾つもありそうにもないのだけれども、ここに、真の和、真の信心と言わなければならないほどに、その和が乱用されておる。真の信心と言わなければならないほどに、信心、いわゆる、宗教が、様々であるという事。その中に、真の信心があり、真の和がある。そこに人間の幸せ、いわゆる、あの世、この世を通して、幸せになれれるおかげが約束される。もし、そういうおかげが約束されないならば、それは、真の和でもなからなければ、真の信心でもないという事になります。
先ほど、前講に、竹内先生がお話を致しておりました。今朝方から、帰ってまいりましたが、大阪の、ここの十三日会に神習うてと、十四日会というのが、ちょうど、私共が、中近畿に講演に参りました、その、まぁ打ち上げのようなパーティがございました時に、泉尾の先生をご中心にして、そん時に、お世話なさった先生方の発起で生まれましたのが、十四日会。もうそれこそ、沢山なお金のある教会ばかりで、こう思い立たれましたから、どんなことでも出来るわけです。毎年、色んな催しがございますが、今度も、百年祭を目指してですが、十四日会の主催で、ね。それこそ、日本の、偉い宗教家、または、宗教関係に携わっておられる人。または、宗教学者と言う様な方達が、もうトップクラスの方達ばっかりです。その中に、本部の教官が入られる。そして、泉尾の先生が、最後を締めくくられるという、実に、興味の深い会合だったんです。という風に、私も思うておったんです。また、事実、そうだったらしいんですけれども、ね。先ほど、お聞きになるように、いわゆる、今後の宗教は、どうあったら良いかといった様な事が、テーマだったそうです。私は、そこでお取次ぎをさせて頂きながら、先生が話を、ここで聞かせて頂いておりました。結局、これからの宗教は、どうあらなければならないかと。そして、様々な、言うなら、説が出たんですけれども。ほんなら、それとても、これだという決まりではない。
例えば、一つの仏教に例をとると、インドで起こって、インドで滅び、中国で起こって、中国で滅び、日本に渡って、今、日本で、その仏教が滅びようとしておるという様なことであったそうです。これは、仏教だけのことではありません。ね。そういう様なお話を聞かせて頂いておりましたら、ご神願に、テレビにあれは、蝮(まむし)何とかと言う落語家か噺家が、噺家ですか、講談家ですか、居りましょう。あの人が何か、あのこう、香取り、何かああいう風なね。キスカか何かというね、あの、蚊がこう止まったつを、誰かが、パチッと叩きよる。そら、妙な顔して、キスカがあるのにと言うのがありましょう、テレビで。キスカがあるのにと。そこんところを頂くんですよ。ね。現在の宗教が、もうそれこそ、滅びようとしておる。だから、どうか、例えば、その方法論である。その方法論とても、決め手はない。ね。そういう状態にあるのが、現代の宗教だと、こういうこと。どんなに素晴らしい頭脳を持って集まっても、そこに答えは、はっきりと出てこない。そういう話を、ここに竹内先生が、広告の様なお話を、皆さんに聞いて頂いておったら、キスカがあるのにという、そんな場面を頂くです。どういう風に、皆さん思われるですか。ね。おそらく、私が、こうやって話しよると、皆さんの心の中で言うておられるでしょう。合楽理念があるのにち。ね。
ここに、助かりの理念と言われる合楽理念があるのに、ね。これは、人間が、幸せになって行けれる、幸福になって行けれる。もう、社会が、ね。合楽世界を生み出していくところの、言うならば、教えであり、そういう手立てがあるのに。従前の教えが、ここに確立されておるのにと、私が言う様な事ではないかという風に思いました。皆さん、やはり、それを本当に、そうですと確信が持てれるおかげを頂くために、皆さんが、ね。もう、とにかく、○○は、合楽理念をもってする他はない。商売は、合楽理念をもってする他はない。
先日の十五日の、富久信会の時に、皆さんに、まぁ今度の富久信会は、特に素晴らしいお商売人の方達ばかりですから。素晴らしいお話が出ました。それで、最後にです、ね。お互いの、例えば、ご神前なり、家庭に、家庭を挙げて信心をさせて頂いておるところには、ね。家族中の者が見えるところに、ね。今日も、どうぞ、合楽理念の実験実証者たらしめてくださいと書いておきなさい。ね。会社であるならば、商店であるならば、その事務所に、または、みんなが見るところに、合楽理念の実験実証者と、今日一日も、お使い回しを頂きますようにという意味の事が書いてある。お客さんが、ありゃ、何ち言うこっですかと聞きなさる。ね。例えば、これが、商店であるとするならばです。これはね、お客さんと私共がね、仲よう、合楽し合うていくという事。そっから、良いものが生まれてくるという理念であり、そういう運動を、今、私共は、合楽教会において、させて頂いておりますと言うて、思わず、合楽示現活動に参画することも出来るじゃないかと言う様なお話をしたことでございます。それにはね、本当に合楽理念の実行、言うなら、実験、そしてそこに、実証、いや、そるけん、あーた方ん品もんが、やっぱ、安かと思うた、良かと思うた。そして、何所よりも安いと思うたという事にもなってくれば、いよいよ、間違いない、いわゆる、固定したお得意さんも出来ようというものである。勿論、そうです。それが宣伝だけであってはならない。とにかく、お客さんが、もう、喜んでさえくだされば良いと思い続けなければ、合楽理念の実験ということにはならんのです。お商売をさせて頂いて、今日は、どげな風にして、いっちょ、儲けてやろうかと言ったような事では、合楽理念に反するんです。お客さんが、どういう商売をさせて頂いたならば、喜んでいただくであろうか。これが、家庭の場合であったならば、主人は家内を、家内は主人を、親は子を、子は親をという様に、どういう生き方になったら、今日一日、親が喜んでくれるであろうかといった様な、また、お互いが楽に慣れるであろうかということにならなきゃいけない。
昨日の朝、ここの岩部という先生が、あ、坂根か、坂根先生か、が、頂いておるのに、楽を現すと頂いた。ね。楽を現すという、ね。金光様のご信心、今、合楽で言われておる合楽理念と言うのはね。その楽を、日々の生活の中に現していくということ。それは、言うならば、結構である。言うならば、誰が見ても、言うなら、結構だらけという事ではない。どういう場合にあっても、自分の心が、楽である。ね。
今日、そこの合楽食堂の中村さんが、お届けをしておられました。あの、あそこの前に、それこそ、猫の額くらい小さい駐車場があります。もう、四五台も止まったら一杯でしょうね、あそこは。そこにその、前がこう、大きな森ですから、日陰を指すかなんかからじゃないでしょうか、まぁ止まり良いのでしょう。言うならば、合楽食堂に寄らない、お客さん以外の人が、何時もあそこへ入って、サーっと、そして、あそこへその、まぁ言うなら、眠っていくわけですね。あそこで。それが、今までは、起こし行こうかとかね、黙って、よその駐車場に止まってからといった様な心が動いておったけれども、親先生、昨日ばかりはね。それが、次々とありますけれども、ね。この中で眠っている人達の事を、こっちから祈らずにはおれない様な心にならせて頂きましたら、もう一日が、有難うして、有難うしてち言ってる。ね。楽とは、そういう心なんです。だから、そうなろうとしてなれるもんじゃないです。日ごろ、しっかり、信心の稽古をさせて頂いて、その信心の稽古も、いよいよ、合楽理念をモットーとしての信心の稽古が続けられていく時にです。普通で言うなら、あんた、馬鹿じゃなかのと言われる様な時であっても、ね。言うなら、腹を立てるのが本当だという様な時であっても、腹を立てんで済むどころではない。相手の、その中に止まって寝ている人の事を、祈らずにはおられん、拝まずにはおられないという心が開けてくる。そういう心を、育てていくという事が信心なんだ。合楽理念には、そういう手立てが、色々説いてある。ね。善導を受けて、ね。善導寺、勿体島と、そして、椛目、常持、合楽と、いつも言われますようにです。ね。おかげを頂いて、本当に有難い、勿体ない。
昨日は、ここのエビスさんのお宅、エビスさんち言うて、戎浦さん、いや、簡単に、エビスさん、エビスさんち、私が言うんです。その、エビスさんのお母さんの、二十年の式年祭がございました。本当に賑やかな、賑やかなと言うか、もう本当に、有難い霊祭でした。お祭りも、段々進んで、霊神様にご挨拶をさせて頂きました時に頂きましたのが。今日のお祭りはね。花で勝負するということを、神様から頂きました。花で勝負する。昨日は、父の日でしたから、もう沢山、あのバラの花を頂いた。バラの花だけには、様々な、もうあの、福岡の花屋さんなんかは、沢山あの、黄菊、白菊を、その交えて、お供えしてくださった。今日は父の日ですからと。あっちこっちに電話かけて、今から、あの親先生の、今日は、父の日のお祝いに行きますち言うたら、あちらの信者さん方が、みんな、この、色々なもの託って、一杯その、持って見えられました。と言う様なことで、昨日はもう、それこそ、花、花で、どの部屋も、言うならば、ね。それこそ、花だらけの中にです。今日の御霊様のお祭りが仕えられる。ね。いうなら、花の中に座っておられるような感じの御霊様である。ね。空海の、心の中に咲く花は、弥陀より他に知る人ぞなしと、お大師様は言われたそうです。私も、そういう風に思うた時代があった。大坪総一郎の心の中に咲く花は、天地金乃神様より他に知る人ぞないだろうと思われるほどに有難うなってきた。はぁ、こういう心の状態が、生神金光大神と共に呼吸をしておる時だろうかと言う様なひと時があるんです。ね。だから、この心は、もう神様より他に知る人はないというような思い方をしておったけれども。お大師様、あれは何所までも空海のものである。お大師様のものであると、私は思いました。ね。金光様のご信心は、それであってはならない。自分のこの喜びを、その心をです。ね。言うならば、これを人にも伝え、自分の周辺にも、それを広めていこうというもんでなからにゃ。私の心の中に咲く花はじゃなくて、あなたの心の中に咲く花もでなからなければいけない。ね。その実証として、それこそ、花の中に、埋まっておるような日々が送られるんだ。人間の幸福の条件の全てが足ろうて来るんだ。これは、私の心の花に集まってくるおかげなのだという様に、実証して行けれるのが、私が言う信心であり。いうなら、私の言う真の和であり、ね。真の信であるということでございます。ね。
だからもう、お道の信心はね。言うなら、もうその、キスカがあるのにと、合楽理念があるのにと言えれる信心です。ほんなら、合楽理念は、どういうことを説くかというと、結局、心一つを中心に、心一つで全てを作ると言われるのですから。ね。その全ての幸せが、これに集まってくるほどしのおかげを頂かなければなりません。
昨日の御霊様が、もし、言葉を持って言われるならば、今日は、遺族の人達が、二十年のお祭りをしてくれて、もう本当に今日は嬉しかった、有難かったと言うのではなくて、この喜びは、もう、明日も明後日も、また、その次の日も、ずーっと、頂き続けることが出来るほどにおかげを頂いておるということを知らせてくれました。ね。お花には、花菖蒲が、見事にこう、生け上げてございました。お生花風に。それが、私の神願には、真ん中に咲いておる、その、菖蒲の花がね、紫ではなくて、真っ白な菖蒲でした。その真っ白な菖蒲がです。もう、次第次第に、紫色にこう変色していくところを頂いた。そして、もう濃い紫の菖蒲を頂いた。それが芯に、っとこう立っておる。その次には八分咲き、その次には五分咲き、その次には三分咲き、次にはもう硬いツボミの菖蒲が、もう、ぞっくりと、生えておるような状態を頂いたんです。皆さんが、ここで頂かれるように、紫ということは、安心の色と言われます。ね。いわゆる、御霊様が喜びの御霊、安心の御霊として、おかげを頂いておる。合楽にご縁を頂かれて、五年か六年になりますでしょうか。ね。初めて、エビスさんが、ここにお引き寄せを頂いて、私の話を聞いてくださった時に、もし私が、若いならば、私はこのまま、合楽で修行して、お道の教師にでもお取立て頂きたいて言うほどに、一つの傾倒された、感動された。それからというものは、一家を挙げての一生懸命の信心であり、長女をお道の教師として、お取立て頂くことの願いを持たれて、また、そのおかげを頂かれた。最近ではもう、どんなに考えても、どっから言うても、こういう家が、とても建つ、建つとか建つと思われるような状態下ではないのにも関わらず、人が来て、立派な家が出来よる。今、ご普請中なんです。そして、あーた、親子四五人どんおって、こげな広か家を建てなさらんでんと、みんなが言うほどしに、広いお家が出来ておる。勿論、ご神殿を中心に、それこそ、檜造りのね。もう見事な、その神様の、いわゆる内殿が出来た。そこの襖を取り払うと、沢山の人が集まって、お祭りでも出来るだろう。共励会でもして頂けれるような、そこにはまだ、信者は沢山は居りませんけれども。私共が、あちらに移らせて頂いたら、ね。合楽示現活動に参画して頂いて、このお部屋、言うなら、一杯を、共励会などに使うて頂けれることのために、こういう目論見というか、設計をさせて頂いたと言うておられます。ね。一家を挙げての信心。ね。どんなに考えても出来る事ではない。
信心を、段々、進めてまいりまして、ね。ほんなら、合楽理念をもってすれば、ね。それこそ、キスカがあるのにと言う様に、言うならば、簡単です、明瞭です、しかも、確かですとは言うても。ね。ほんなら、例えば、人間の欲望が、ずーっと、欲望が叶え続けられるということではないのです。ね。そこには、様々な、それこそ、雨もありゃ、風もあるけれども、その雨もまた有難い、風もまた有難いという様な、ね。心の状態が開けてくるから、信心は有難いのです、楽しいのです。
今日も、お参りになっておられますがね。鞍手に、柴田さんという方が、熱心に、それこそ、女ながらも、それこそ、男勝りのような信心をなさいます。ね。先日から、二三日ほど、毎日電話が架かってきます。それは、宮崎のほうへ親戚があるんです。ね。その親戚から、電話が架かってきた。息子さんが、ある大きな会社の社長さんのお抱え運転手をしておる。ね。ところが、朝、その出勤の時に、お母さんが、何かえげつのう、喧しゅう言うたげなから、でもなかったかも知れませんけれども。その日を境に帰って来んごつなった、お家に。ちょうど、その日は、たまたま、給料日だったから、給料持って、どこかへ行ってる。さぁお母さん、心配になって、その、柴田さんのところに電話を架けてきた。あんた、親先生へお届けしたかと。ほんなら、あんたからお届けしてくれと言う様なことで、本人も架けられ、柴田さんも架けられて。いよいよ、昨日が、ぎりぎりの日であって。もう会社に何とか返事をしなければならないという日であった。それで、私は、お取次ぎをさせて頂いたら、とにかく、今日一日待てと言うことであった。ね。今日一日待たれたら、ちょうど夕方、本人の息子さんから電話が架かってきた。それこそ、やれ嬉しやと思うて、電話に架かったところが。もう私は、一生家には帰らんち言わっしゃった。家内や子供は、里に子供連れて帰っとく様に言うてくれという事である。もう、それこそ、お母さんの嘆きというものはね、それこそ、泣き泣き、柴田さんところへ、また電話が架かってきた。親先生が、夕方待てと言わっしゃったから、もう、夕方には、息子が帰ってくるじゃろうと思いよった。ところが、帰ってくる段じゃない。もう、家内は、子供連れて里に帰っとけと、自分な帰らんとこう言う。ね。けれども、私はあの、申しました、柴田さんに、ね。さぁ、夕方待てという事が、息子が帰ってくるということじゃない。ね。会社にはっきりと、こうこう言う訳ですから、あの、と言うて、返事が出来るという事だけでも有難いじゃないかと。そして、それから先の事は、また願えという風に申しましたんです。信心とは、そうなんですよ。自分の思う通りになるという事だけが、ね。昨日おかげで、ちょうど親先生が、今日一日待てと仰ったら、ちょうど、息子が、夕方には帰ってきた。もう、しかも、詫びして帰ってきたというなら、尚良かったろばってん。そういう事じゃなかった訳なんですよ。ね。けれどもそこに、はっきりと、会社に、言うならば、返事をすることが出来る。そして、いうなら、子供の不心得だけではない。ここに至るためには、親も改まらなければならない。そして、心を神様に向けさせて頂いて、親も改まるなら、子もまた、改まって、そして、一緒になったでなからなければ、また、同じ事を繰り返すじゃないかと。これが、いよいよ、本当に心に、言うなら、心配である、難儀であるならばです。ね。その時点で、神様は、おかげを下さって、次には、改まらせようとする働きがあるという事なんです。次には、磨かせようとする働きがあるという事なんです。そこを気付かせて頂くことが、ね。神様を知るということなんです。
今朝の御理解には、この方の信心を、神と仲ようする信心ぞという御理解でした。ね。神と仲ようする信心と言うことは、神様と仲ようして、合楽し合うていく信心ぞと。そこから、生み出されてくるのが、本当のおかげなのだぞという事なんです。これは、ね。親子でも、夫婦でも、ね。隣近所の事であっても、理屈は同じなんです。ね。どういうわけに、言うなら、神と仲ようするかと。仲ようなれないのかと。自分の思うようになり、都合ようなる時だけは、ほんに神様ちゃ有難い有難い。もう死んでも、このご恩は忘れませんと言う様な、ね。心の状態になってきたかと思うと、いわゆるその、自分の思う様にならないと、親先生は、あげん言いよりなさったけれども、おかげは頂ききらじゃったと。これではね、言うならば、神と仲ようするという事じゃないでしょう。ね。おすがりをしてから、これなのだから、ここには、神様の深いご神慮があることに違いはない、神様のご都合に違いはない。これは、まぁだ、私の信心が足りんのだと。そこからの信心を、神様が願っておられ、そして、そこからのおかげを、神様は下さろうとしておるということを分からせて頂く。ね。神様との理解が出来合う。神様との、言うならば、思いが分かり合う。親子の思いが分からない。分かり合わないところに、親子の断絶がある。ね。夫婦の心が、よか時ばかりの夫婦だから。さぁ困った事ともなると、もう、別れようということになる。ね。これではね、おかげにならんのです。いや、今日、私が言う、真の、言うならば、和でもなからなければ、真の信でもない。自分の都合の良か時だけ、もう本当、これが和賀心じゃろうかと言うのじゃいけん。ね。真の信心、真の和賀心というものを、私共が、いよいよ、本当なものにして行くところの修行をなさせて頂かなければいけない。
先日から、ある方が、ご両親が大変な病気で、もう難しかろうと言いよったのが、おかげを頂いて、まぁ奇跡的に助かって、二人とも退院のおかげを頂いた。ね。そこで、私の、言うならば、責任は済んだようなものだから、夫婦別れしたいとこう言う。何十年間と、一緒におってから、どうした事かと言うと。主人がね、お酒を飲んで帰る。もうとにかく、その、月末ともなると、料亭とか、バーあたりから来る、ツケの方が、給料よりも、その、給料だけじゃ足りない訳なんです。しかも、その上、この頃は、小豆相場にてを出しておる。もう、いよいよ、見込みがないからとこう言うのである。ね。そしたら、神様から、私が頂きますのがね。あの、幼稚園の子供達が歌う歌にね。結んで開いてというのがあるでしょう。ね。結んで開いて、その手を上にと言う。こう、その手を上にというところを頂くんです。ね。結んでということは、結婚をした、そして、今度は開こうとしておる。そういう風に、もう、それこそ、自分の心が、行きつ戻りつしておる。迷うておる。けれども、その迷うたところで仕方がない。もうここは神様のおかげを頂くより他に手はないと、神様の前に、無条件に降伏の姿になった時に、そこから、良い道が開けて来るんだよと。自分で、ああしたい、こうしたいという心を捨てて、この手を上に上げた時に、おかげは受けられるんだという御理解をいただいた途端に、感動された。はぁ本当に、神様、金光様と言いながら。いよいよの時には、こういう心の状態になってしもうて、それこそ、今こそ、お任せしきって、神様のお懐に飛び込む時以外はないんだという腹が決まって帰った。ね。ところが、その晩は、ご主人が、お酒を一滴も飲まずに帰ってきなはった。そしてから、お母さん、もう、小豆相場のあれはもう、みんな売ってしもうたち。もう半分な損したけども、もう、あげなもんは、売ってしもうたと。まぁ嬉しいやら、有難いやら、ね。あくる朝は、もう何時もよりか早く起きて、そして、畑にども出て、それから、只今出勤させて貰うて送り出したとこです。こういう、言うならば、すさまじいまでのおかげを頂きましたと言うて、お礼のお届けがあった、電話で。
あぁ、そげなおかげ頂いた時には、直ぐお礼に出て来にゃいかんですね。そりゃ、直ぐお礼に出てこうと思うたばってんから、出て来なかった。ところが、午後から、また電話が架かってきた。と言うのは、長崎の方で、ある方をお導きしておる人が、もう一遍、合楽にお参りをしたいから、あなた、どうでん連れて参ってくれないかとこう言われた。はぁそんなら、私もお礼参りせにゃならんとばってん、しとらなかったから、ほんなら、一緒にお供しましょうと言うて、夕方ここへ参ってきた。私は居ませんでしたけれども。参って、お礼参拝をしてきたんです、ね。それでもう、それこそ、一段落着といったような感じがしたんですけど。あくる日、また電話が架かってきた。今度はまた、その嬉しい声じゃなかです。先生、あげんお願いしとりましたつが、相場はあーた、半分しか売っとらじゃった。半分なまぁだ、残してるごたる風でございますと。と言うて、まぁ不平不足らしい、その事でございましたけれども。私が申しました。まぁそげな風に言いよるばってん、、心は、ほんにあんたは馬鹿じゃなかのち言うごたる気持ちで申しました。後にね、その後に残っとるとで、いっちょ今度は、元取らせんでもです、ね。これで、一儲けさせて頂いて、そして、後ばすっぽり、止めるようなおかげ頂いたら、あんた、こげナおかげはなかじゃんのと、私が申しましたら。はぁそうでしたち言うてから、まぁ、はっははは、ね。だから、信心もね、様々なところがあるという事です。ね。そこの、様々なところに、言うならば、神様の深いご神慮、思し召しを悟らせて貰い、分からせて貰うて、ね。いわゆる、真の和を求め、真の信を、言うなら、真の信心をね求めていく。ね。
さっきの、竹内先生のお話を聞いておって、こりゃもう、いよいよ以って、合楽理念が、世に問われる時代が来るぞと。為には、先ず、皆さんが、いよいよ、その合楽理念の実験者であり、実証者ともならせていただいて、もう、合楽理念をもってする他はない。そして、今までの、言うならば、宗教革命である。ね。言うなら、つぶしてしまえではないにしましても、言うならば、合楽理念という精神がです。あらゆる宗教の中にも入っていくほどしのおかげを頂いて、人間の幸せ、人間の幸福の世界というものが、開けてくることのためにです。方法論じゃ駄目。もう、合楽理念をもってする他はないと言う。それこそ、キスカがあるじゃないかというようなです、ね。そういう難儀なところを通らんでも、合楽理念があるじゃないかと、皆さんに、お話が出来るほどしの、一つおかげを、皆さん頂いて貰いたい。自分の心の中に、自分の家庭に、ね。今日も、どうぞ一日をです。ね。合楽理念の実験者たらしめてください。そして、実証者たらしめてくださいという願いを、いよいよ強く求めなければならないと思います。どうぞ。